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読みづらい本もあるけれど・・・・。

  • 2008/08/19(火) 07:03:06

<直線で描かれた家々、そして独特の青を基調とした色、蓬田やすひろさんの表紙絵>
本satoedohannjoki
佐藤雅美著『江戸繁盛記』、副題は「寺門静軒無聊伝」。
時折、この佐藤様、あえて様をつけさせて呼ばせていただきますが、この著者佐藤様は手に負えない。もともと読者に楽しんでもらおうという、作家から読者への阿諛することが出来ない作家なので、ことにこの本のような作品は一部のお好き者にしか受け入れられないと思う。
私の場合は受け入る能力もなかったが・・・・。

そもそもこの主人公は『江戸繁盛記』という作品を書いた寺門静軒でありまして、

寺門静軒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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寺門 静軒(てらかど せいけん、寛政8年(1796年) - 慶応4年3月24日(1868年4月16日))は、幕末の儒学者。諱は良。字は子温。通称は弥五左衛門。克己・蓮湖という号もある。
水戸藩御家人の子として生まれる。13歳で父が死ぬが、後を継いで仕官する事が許されなかったために、折衷学派山本緑陰の門人となった。駒込で塾を開いていたが、天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁盛記』を執筆する。途中、林述斎の讒言によって江戸幕府によって出版差し止めになったにも関わらず、天保13年(1843年)に第5篇まで書いたことが咎められて、「武士奉公御構」(奉公禁止)となる。
以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。


と記載があり、この中にある「武士奉公御構」(奉公禁止)とは、謂わば武士の身分を剥奪されたようなことで、大変な仕打ちであります。
晩年については、あちらこちらの史実の記録、人物往来などに

ふるさと妻沼の風土が育んだ忘れ得ぬ人々。
そして、この地を愛した人々。
いま、その軌道を見つめてみたい。
 ・・・子弟の教育に情熱を注いだ・・・寺門静軒


   後半に詳細あり(省略)
埼玉県大里郡妻沼町・・・人物往来欄


妻沼に両宜塾(りょうぎじゅく)を開き、大里で没す 1796から1868年
熊谷市の先覚者


などと資料もあります。

本に戻ると、なるべく資料の解析に近いような難しいところを避けて読めば、それなりに面白い。
ただその部分は余り多くない。
若干、引用してみたい面白い部分もあったが、その部分の漢字が簡単には今のPCでは変換できないのであきらめてしまった。
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